子供の見る夢(俵万智『ちいさな言葉』)
夢は自分で見ているものなのに、自分の頭で考えても思いつかないような出来事が起きたり、思いつかないようなものが出てきたりします。
一方、子供がする話というのも、大人が思いもよらないようなもの、想像がつかないようなものだったりします。
そして、俵万智さんの『ちいさな言葉』というエッセイ集には、息子さんが見た夢の話が載っていて、つまり、上の二つの要素を合わせているわけで、それは期待通り非常に面白いものでした。
「夢の学校」というエッセイには、息子さんが夢の中で通う「夢の学校」が登場します。そのような夢を一回見たという話ではなく、何度もその夢を見ることがあるらしく、母親である万智さんに繰り返し語るそうです。
「あのね、まどから、ゆめのがっこうのなかをのぞいてたらね、みんなが、どろぼうかなあっていったの。はずかしかったあ」とか「ゆめのがっこうにいったら、つくえにトマトジュースが、いっぱいいっぱいのってたの。ぜんぶのめるかなってしんぱいになっちゃった。あれ、せんせいがおいたのかなあ」とか。
息子さんは就学前なので、生徒ではないから「どろぼうかなあ」ってことになってしまったのでしょうか。そして、なぜ大量のトマトジュースを飲む状況になっているのか、なかなか謎が多いです。
別の日の夢も、夢の学校に行ったら、壁も階段もエレベーターも椅子も机も全部コロッケで、忍者みたいに壁を歩こうと思っていたけど、あきらめて帰ってきた、など。
夢の学校は遠い場所にあり、おかあさん(万智さん)は行けないそうです。そして学校のとなりには「まずや」というのがあるそうです。そして、「まずや」とは何かと訊くと、「まずいものばっかりでてくるレストラン」だそうです。
このまずやでどんなものが出てくるかは、別の回の「まずや」というエッセイに具体的に書かれていて、「しゅうまいの入ったおちゃ」「チョコレートのかかったシチュー」「かぶとむしのはいったごはん。おちゃわんもバリバリたべないと、おばちゃんにおこられるの」など。
まずいものを食べる、食べられないものを食べる、なんて夢は私も見たことがあり、パターン化できそうです。どんな意味があるのでしょうか。
はじめてボタンをはめる練習をしたときに、意外と上手にできたので、「はじめてとは思えない」と褒めると「はじめてじゃないよ。ゆめのがっこうで、れんしゅうしたんだ」と。イメージトレーニングが有効だということはよく知られていますが、それを意図せず実践しているところが驚異的です。
そして、こちらは見た夢の内容ではなく、夢とはどういうものであるかという捉え方があらわれている発言です。
「あのねえ、きのうも、ねたことをわすれちゃって、ゆめをみたんだ」と、照れくさそうに言ったりする。
寝たことを忘れるとはどういうことでしょうか? なぜ、照れくさいのでしょうか。そのことについての万智さんの分析は、寝ているとは何もできない状態であるはずなのに、寝ていることをすっかり忘れて夢の中でいろんなことをしてしまう、それにあとから気づいて恥ずかしい思いをするのではないか、ということでした。
他にも、怖い夢を見たというので、万智さんが内容を聞くと、「しってるでしょ」と言って、教えてくれない。「知らないよ」と言うと、「おかあさんも、でてたじゃない!」とか。
夢に出てきていた人と、その内容を共有できているという発想は斬新ですね。クリストファー・ノーラン監督の映画『インセプション』を彷彿とさせます。夢が自分の思考の中だけ構築されるわけではなく、外界の真実と関連しているという点は、夢に出てきた人は自分のことを思っているという、万葉集の頃からある日本の俗説とも似ている気がします。夢の中のお母さんにいじわるなことをされたら、きっと、朝ご飯のときに抗議することになるのでしょう。

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